「東京ほくと医療生協65年のあゆみ」紹介
2017/12/06 東京ほくと
民医連と医療生協の活動にささえられた歴史
豊島4丁目在住(元職員・管理栄養士) 中西洋子(67歳)
私が入職した時(1972年)は、50床の「労働者クラブ」王子生協病院でした。3階建ての病院の後方にバラックのような建物があり、栄養課がありましたが、もと外科病棟だったそうです。あまりの古さに驚きましたが、数年後に病院の増改築があるという話と栄養士を3人も採用してくれることに希望をもちました。当時は現在のような新入職員教育はなく、故林俊一院長による王子生協病院と民医連の話だけでした。60年代の外科病棟閉鎖と民医連加盟を守ったたたかいの話は印象的でした。
大きな変化は1977年に病院の増改築で98床になり、1978年に東京北部医療生協として独立したころからです。医師体制も常勤医師は林院長と大場俊英医師しかいないなか、医師を育てる病院づくりに変わったのは、外科再開のためにきていただいた佐藤達郎医師、研修医を育てるために伊藤淑子医師がいらしてからだと思います。
生協法人になってからは、組織部や地域保健部の保健師さんとともに保健学校や栄養学校も旺勢に行い、地域の班活動にも積極的に参加し、医療活動と健康づくりの活動と社会保障の活動が大きな3本柱になって、私が働き続ける原動力になったと思います。
この間、経営危機、医師や看護師不足などの多くの困難に直面しながらも4つの法人の合併と2013年には、念願の新病院建設をやり遂げ、まさに感無量という感じです。今日の東京ほくとの歴史は、まさに民医連という医療従事者の集団にささえられ、医療生協という組合員さんの大きな力によってつくられたと実感できると思います。